グリーフケア神戸 風の音

グリーフケア(悲嘆ケア)に関するブログです(^^)

私の生い立ちのお話

今日はつらつらと心の整理のためにも、
自分の事を書いてみようと思います。
(たぶん、長いです・・・^^;


いつかの記事にも書きましたが、私が生まれてすぐ実父が失踪し、
私は母一人で育ててもらいました。

母は飲み屋さんで働いて幼い私を家に置いて、
働きに出てくれました(今の時代は虐待とか言われそうですね(^^;
はっきりいって貧乏でした。(いや、はっきり言わなくても(笑)


母はいつも
「何でも自分でできないとダメ!」のもと、
5歳で耳鼻科に一人で通いましたし、
(最初の1回だけは母と一緒に。診察券はこう、
お金はこうみたいな感じで特訓)何でもやらされました。

 

夜、私が寝てから家に鍵をして仕事に行くのですが、
緊急な事があれば、お店に電話するように言われてました。
幼くてはっきりは覚えてないんですけど、熱が急に出たんだと思います、
寝てるお布団の上で、吐いてしまって、パニックになってしまいました。
5歳とか6歳だったと。
でも母はいないし、必死に電話したものの、
布団を汚してしまった・・・・、母に迷惑かけてしまったというので、
悲しくて泣いてしまい、今でもその光景をうっすら思い出すと涙がでます。


母が仕事場から戻ってきて私を救急外来に連れていって、
お医者さんからはこっぴどく叱られたようですが(仕方ないですよね。
でも、綺麗ごとではなく、生きていかないといけないので、
母も必死だったと思います。頼れる人もいませんし。
生活保護のような事も母に打診があったようですが、
身体が悪い訳でもないので働きます!まだ頼りません!って頑なに断ったそうです。


そうして成長していくと、女ざかりの母が、彼氏をつれてきます。
泊まったりした事もあり、新しいお父さんだよ~みたいな感じでした(笑)
ただ、その彼氏が母に暴力ふるうんですよね。
一度、その彼氏が私にまで手をだそうとしたのを見て、
母親が、出ていけ!!!とその彼氏を追い出していました。
包丁片手に・・・(^^;;;
彼氏の代わりはいくらでもいる、でも、あんたの代わりはいない。
ママが悪かった・・・と泣いてました。


でも数か月するとニュー彼氏!w
まー、そういう感じで育ったのですけど、
歴代の彼氏は母を殴るので、
精神科医の父が現れたとき、やっと殴らない人きた!って喜んだのを覚えています。
その父が私に大きな影響を与えてくれて、数年前に看取るまでいろんな事を教えてくれました。

 

こういう生い立ちなので、ニュースとかで母親の彼氏っていうのを
見ると、ムカムカします。


反抗期になり、母親と衝突したりして、
高校を辞めました。反対されましたが、もうスルーしました。
母は、学校やめるなら、もう扶養義務はない。
働いてお金をいれなけば出ていけ。
こんな感じでしたので、居酒屋でバイトしました。
皿洗い、掃除、何でもやりました。
安い時給、でも、こんな私を雇ってもらえるだけでありがたかったです。
途中から見かねた父が、クリニックの掃除人として雇ってくれました。
父と母は籍が入ってる訳じゃないので、私はもちろん他人。
そこは甘えは一切なく、誰よりも働きました。
むしろ厳しくされました。口答え厳禁、未成年だからって労働者にはかわりない。
社会人として扱ってくれました。厳しかった。
初めてみる精神科の患者さん。。。怖かった・・・。
もちろん怖いとか言えないし、どうしてこうなるんだろう・・・って。
毎日悩んでましたが、私に選択権はないので、働くしかありませんでした。
今思うとこの時の疑問が、病とは?って考える原点かもしれません。

(でも、ここででていけ!お金を稼げ!て厳しくされて良かった。

さもなくば、今問題になってるひきこもりに私もなってたかも・・・)

 


一方でこの頃は、もうリアル尾崎豊のみたいな生活でした。
盗んだバイクで~~~~です。笑
仕事が終われば、盗んだバイク生活です。(念のためバイクは盗んでない(笑)

 

みんなが高校に行ってる時に、雨の日も風の日も必死に働きました。
そんな感じで盗んだバイクで生活も飽きてきたので、本屋さんに行き、
高校卒業認定試験(私が受けた時は大検でした)の情報をゲットし、
18歳で初めて受験し資格を得て資格ゲット!→19歳でナースの学校にいきました。

 

救命救急と急性期脳外科外来でみっちり鍛えられて、
なーんか違うな~とか、いろいろありつつ、関西に出てくることに。
私は人が生まれる瞬間よりも、死んでいく時の助けになる人になりたい!と、
ターミナルケアに興味を持ち、勉強してました。
そして、ナースやーめた、と思って、夫と結婚しました。
それからは夫の実家の家業、商売の世界に。みっちり鍛えてもらいました。
雑草育ちの私が、超温室育ちの夫と(笑)
商売人って空気が意外と私にあってたのかもです。
経営者となり十数年。そしてリウマチになり働けなくなり・・・。
そして今またグリーフ(悲嘆)のケアの勉強中です。

 

最近よく思うのです。


私の生きてきた道は、楽ではなかったかもしれません。
でも、「自分で考えること」は、昔から当たり前のように言われていて、
本を読む事、しっかり検証する事も教えられてきたように思います。


最近、よく母と話すのですが、


子育てという懲役20年の試練(子供が20歳になるまで)
私は16歳で高校をやめ、経済的負担はそれ以来一切母にかけてませんから、
私が
「ママは、模範囚だったから16年で終わったんだよ。良かったね!」
と言うと、
今でも涙ぐんで泣き笑いな顔になってます。

 

私はある意味偏ってる部分もあるし、欠けてる部分があるのも、自覚があります。
でもそれを責めようとかは一切ないです。
母にとっての最善を当時つくしてくれて、私を育ててくれた。
感謝しかありません。
(感謝となるまでは、それはもう葛藤はたくさん(笑)


こんな私なので、人生なめてる人は嫌いです。甘ったれ論外。
一生懸命な人が好きです。
~~~障害のようなものとか、~~チルドレンに私も当てはまるかもしれません。
でも、だから何?です。


勉強を人から教わらず、全部ひとりでやってきたのも良かったかもです。
塾なんて通った事ないし、嫌いでした。余計なお金がかかるので。
栄養の勉強していても、もとの私がこうなので、
自分でやったるぞ!!精神が強いのかもしれません(笑)


幼い頃、貧乏でしたが、
本をたくさん与えてくれて(自分で選ばせてくれてました)
そこらへんにあったお花を何かの空き瓶に飾り、
家にはいつも花がある生活で、心を豊かにしてくれた母。
そして何より、人を見抜く力を鍛えてくれました。
一瞬で、この人はいい人、そうでもない人っていうのを見抜けないと、
自分を守れませんからね。洞察力の特訓はよくありました(笑)


こんなエピソードがあります。
盗んだバイクで~の時代に、ホームレスのおじさんと友達になった事あります。
家にも連れてかえってきて、母がすきやき作って食べてもらってました。
今考えると、この母親もおかしい人ですよね。
でも、娘がお世話になってます、って感じで、お肉提供してましたよ。
おじさん、お肉のお礼だって、うちの周り綺麗にして男でしかできない力仕事みたいな事して、
どっかにさっていきましたw
この時のなごりなのか、最近はそんな事ありませんが、
知らない人と友達になるの早いです!
飲み屋さんも一人で行ってたしw (スナックの英才教育してもらったから?笑

 

いまではプロテイン人間となった母(ビーレジェンドがお気に入り(笑)
自分の身を削って、大量にお酒を飲んで稼いでくれた母には、
本当に感謝しかありません。

 

発達障害とかで頑張ってるお母さんの姿みると、立場は違っても、
「頑張ってる母!」という部分で、感動します!
母はすごい!頑張れ~~って。


もし今、どこかで苦しんでて、この文章を読んでる人がいたら言いたい。
大丈夫、未来は明るい!!!

 

私がもし、母親の事を、毒親!って罵ってたら、
今の生活はないと思います。
全部、病が生き方を変えなさいって教えてくれました。


こんなダメ人間のお手本のような私でさえ、
ここまでこれました!
今は苦しいかもしれない・・・・、でも、光はあるよ!!って言いたいです!
ちょっと恥ずかしかったけど、
そういう人に届け!って思って、自分ネタ書いてみました(笑)


自分に栄養与えて、(身体にも心にも)コツコツ頑張りましょうね!

 

自分で治る道は美しいし、未来は明るい!
みんな、頑張ろう!

 

この文章書きながら、当時を思い出し、何回も泣いてしまいました(^^;;;
文章として出し切れて良かったです(笑)

 

 

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